地域の骨組みを支えてきた製材所 No.004 嘉村勝彦さん
- 2020.02.19
- written by 山本 卓

嘉村製材所を営む嘉村勝彦さん(60)。三瀬生まれ。サラリーマン経験を経て26歳ごろに三瀬に戻り、嘉村製材所を3代目として継業すること34年。
工務店や大工さん向けの建築材の販売や、一般消費者向けにも材料の製材、販売を行っている。
「製材所を継ぐために戻ってきたけど、製材所の後継者として三瀬に戻ってきたというわけじゃないよ 」と話してくれた真意とは?
店をたたむ製材所が多い今の時代、地元で愛される嘉村製材所の仕事の仕方とは?
DIYの相談も受けている?
地域に根差して生きるとはどういう生き方なのか?
嘉村さんが作り上げた一本一本の骨組みをお伺いしてきました。
3代目嘉村製材所として継業の道へ

嘉村製材所を継いだきっかけを教えてください。
親父から、どうしても「戻ってこい」って無理やり戻されたみたいなところはあるね。大学卒業後4年間はサラリーマンをやっていた。
「仕事を辞めたくない」ってものすごく葛藤はあったけど、親父の意思が強かったから……仕方なくね。
サラリーマン時代はどんな仕事をされていたんですか?
全国の製鉄所の中に、鉄のスクラップから鉄だけをもう1回、回収して地金にするっていうリサイクル工場を導入してもらうための営業をしていた。
会社からはいろんな資格を取らせてもらったし、4年目で主任も任せてもらったり、会社ではじめての関東進出の工場を任せもらったりもしていた。
だから、会社を辞めると伝えたときには「お前に会社には感謝ばかりだったよ。どれだけの投資をしたと思ているんだ」って大反対されちゃってね。会社を辞めるのにだいぶ時間がかかっちゃった。
会社には感謝ばかりだったよ。
嘉村製材所を継業したのはいつ頃ですか?
26歳の頃だったから、今から34年前に嘉村製材所を継いだ。
三瀬に戻ってきた時は浦島太郎状態だった。高校から会社を辞めるまでの11年間三瀬にいなかっただけなのにね。ちょっと焦りました。でも、昔からの顔なじみの同い年の人が集まっていたから、不安はそこまで感じなかったですね。地域の方が商売人の集まる商工会の青年部に誘ってくれたり。半ば強引に親父に戻されたところはあるけど、そのコミュニティーの骨組みがあったから不安に思うことがあまりなかったんだと思います。

嘉村製材所の仕事とはどういったお仕事なんでしょうか?
うちの場合は、おじいさん(1代目)の頃は、山に入り木の伐採から丸太にして出荷する“伐採業者”をしていた。
それから親父(2代目)の頃には伐採から加工までする“製材業”へ変化し、事業が拡大していきましたね。
そして、現在は伐採業をせずに、原木市場に行き、原木などを買い付けて、必要な大きさに製材し納品する製材業が主な仕事になりました。
建築材や、工事現場などの足場に使う板などの製材が主な仕事かな。あとは個人的に発注があればその都度、必要な木材を調達して配達する仲卸業も行っています。
原木から製材して板材を作るときは、まだ木が生きていて水分を含んでいる。木材は乾燥させないと、曲がったりそったりする。
だから、すぐに使う木材が必要な場合はすでに乾燥し終わった材、いわゆる乾燥材を原木市場で買ってきて、必要な大きさに加工します。用途と使う時期に合わせて、原木で買い付けたり、乾燥材として買い付けたりしている。
原木を製材する際にどのようなところを見ながら製材されるんですか?
“曲がり方”と“節”の2点を見ながら製材しています。
製材した木材は、もともとの木自体の曲がり方に戻ろうとする性質があるんです。
なので曲がり方を見て、どうやったら一番丈夫に長持ちする材が切り出せるのかを見ています。
そして、節です。節がない木は無節材といい値段が高い。節がある材は、節の部分に穴が開いてしまうから、どうしても値段が安くなってしまうんです。ただ、最近は節があったほうが味があっていい、という方もいます。 その木材を何に使うかによって切り出し方も変わってきます。
節の状態も見極めることが大切なんです。

地域の中で仕事をする難しさ。過去と現在の仕事の違い。

製材所を営んでいく上で大変なことはありますか?
今の売り上げは、継業した当時に比べて半分ぐらいかな。そもそも昔よりも全体の仕事量も減ってきている。
昔は年に1回は公共事業があった。公民館や、小学校、診療所や村営住宅も、みんな木造だった。
そこへ木材を入れさせてもらったりして。当時はそういう公共の建物を地域の大工が建ていた。大工から材料の発注がきて、大工の仕事加減を見ながら「次はこんな材料が必要だな」って考えながら納品していた。
3~4か月間ずっと製材しっぱなしでした。その頃の仕事量は多かったね。当時、仕事のやりがいはすごくあった。
まぁ、仕事があったからって儲かったかっていうと、それは別の話だけどね(笑)。
今は地域の中では仕事として成り立ちにくい、厳しい現状になってきている。

今と昔の仕事の成り立ちの違いってなんですか?
大きな違いは仕事をする上での関わる人の流れが変わってきたことかな。
例えば家で考えてみれば、昔は「家を建てるならあの大工さんにお願いしよう」って地域の中には必ず、お抱えの大工がいてね。
その大工から私たち製材所、つまりは材料屋に発注が来て、現場に卸していた。地域の中だけで仕事が回るシステムがあったんだ。
今は高齢化にともない大工も減って、地域の建設会社や工務店も廃業、倒産していく一方。昔のように地域の中だけで仕事が回るシステムが、成立できなくなってきている。あとは、住宅メーカーに頼むケースが多くなってきていることもかな。
住宅メーカーとの競合は難しいですか?
住宅メーカーも昔は製材所から材料を購入してくれていたけれど、今は大型プレカット工場など独自のルートから直に材料を仕入れている。
プレカットっていうのは、機械で最初から加工されている状態の木材。
昔はホゾ(木材を接合するときの突起)やミゾといった加工は、現場で大工さんが木材を見ながら手仕事で進めていた。そういう大工さんの職人技が今は機械にかわっていっている。
三瀬に新築が建つときも建てているのはたいてい、住宅メーカーばっかりでしょ。
“小回り”と“寄り添い” 自分にしかできない嘉村製材所の仕事術

昔からの仕事が成り立たない、今の時代に生きていく極意はなんでしょうか?
住宅メーカーにはできない“小回り”ですかね。これは強味だと思いますね。
必要な時にすぐ材料を渡してあげるってことは大手ではできないことじゃないかな。
いつでも対応できるようにどこで何が調達できるかの情報網をいつも持っている。
最近はDIYやセフルビルドといった自分で家を建てたり、棚を作ったりすることが流行ってますよね。うちにもそういった相談に来るお客さんがいます。
相談って時間もかかってしまうし、お金にはならないんだけど、仕事の合間を見て、そのお客さんのために図面を書いたり、「この場所にはこんな材料が必要だね」ってアドバイスをする。
私も相談されると弱くて、できる範囲でなんとか協力してあげたいって思っちゃうんだよね。
相談に来てくれたお客さんを大切にしているんですね?
僕は相談しにきてくれた人に少しでも喜んでもらいたいと思って仕事をしている。
基本的には、材料にはカンナがけをして渡してあげることが多いよ。ほかの業者ではあまりやらないことだけど、材料にカンナをかけてあげたほうがきれいだし、喜んでくれるから。
お金は二の次で、相手に寄り添って仕事をしている。
そうしたら、「この前は本当によくしてくれたから、次も材料を頼むときには嘉村さんにお願いしよう」ってまた嘉村製材所に来てもらえるし、口コミでまた、その友達が来てくれる。それがなにより嬉しいんだよね。


嘉村さんの仕事の姿勢って、すべて相手の為に何ができるのかを考えながら仕事しているんですね。カッコいいです。
かっこいいもんじゃないよ。そんなに。
これだけ経営が縮小してしまっているから。あと5年から10年ぐらいで店をたたもうと思っている。だから仕事をしている間は、相手の為に何ができるのか考えながら仕事していきたいですね。
地元のじいちゃん、ばあちゃんとかに困ったことないか? とか聞きながら仕事を続けようと思っている。
仕事を続ける間は、まじめに仕事をやりたいな、とは思いますね。
凡人だから当たり前のことを当たり前に、まじめにこなす。それだけだよ。
3代目嘉村製材所から次の世代への受け継ぐ骨組みを作ること

今後の野望はありますか?
去年、若い子たちが伐採業を生業にした林業組合を立ち上げたいと相談にきてくれて関わらせてもらっている。
伐採のみで食べていくって、今の時代は難しい。
大変だからやめろ。辞めるなら泥沼にハマる前に見切りをつけたほうがいいよって言おうかと思った。
でも、彼らの「民有林に目を向けていこう」っていう熱い思いに賛同しちゃったんだよね。森林組合も手が届きにくい場所で、個人が所有している木を伐採してほしいっていう人たちのために何ができるかって考えたんだろうと思う。
伐採業をするには、ものすごく設備投資がいる。設備投資の予算を国や県がどうにかしてくれるわけじゃない。大変だとわかっている。
大変なのはわかっていても、なぜ関わっているんですか?
自分が地域の骨組みである地域の人たちに支えられたように、次の世代にバトンタッチして、“未来への骨組み”を建ててあげることが自分の役割だと思っているからかな。
なぜ自分がこの場所に戻って来たか考えてみると、製材所の後継者として戻ってきたというよりは、地域の後継者として関わっていきたかったからだと思う。
今は消防団しかできてないから、できる限り地域の為になにかやろうかなとは思ってはいるね。でも、それもすべて自分の為なのかもしれない。
移住希望者へのアドバイス

最後にこれから移住したいと思っている方へアドバイスを頂けますか?
移住してきた人はまず、地域のことについて学ぶ必要があると思う。
三瀬は地域性としては、まじめで勤勉、フレンドリーな人が多いのが特徴だと思う。
移住してきた方に元から住んでいる人が気を使いすぎるところもあるかもしれない。
それに甘えずに、移住してきた人も地域のことをしっかりと学び、お互いが良い関係を築けるように努力することだね。
『郷に入れば郷に従え』ということですね。確かにそうですね。本当にお忙しい中、 お時間をいただきましてありがとうございました。
移住に関するお問い合わせ・相談はこちらまで。
ー 編集後記 ー
「自分は凡人だからまじめに仕事をこなしていく」と話してくれた嘉村さん。相手の為に何ができるのか考えながら、誠心誠意向き合い、まじめで丁寧に仕事をしている。そうすることによって築き上げられた人間関係の骨組みはしっかりと地域の骨組みとなっているのだと思った。


<お世話になった取材先>
嘉村製材所 嘉村勝彦さん
<お世話になった取材先>
嘉村製材所 嘉村勝彦さん
サラリーマン経験を経て26歳ごろに三瀬に戻り、3代目として嘉村製材所を継業すること34年。
建築材の販売や、一般用に材料の製材を行っている。はちみつをこよなく愛し、自らも養蜂を行う。日本ミツバチ100%の『佐賀みつせ高原 百花和蜜』の販売を目標に活動している。
電話番号:0952-56-2711




<取材記者>
山本 卓
「佐賀のお山の100のしごと」記者/地域の編集者(地域おこし協力隊)
<取材記者>
山本 卓「佐賀のお山の100のしごと」記者/地域の編集者(地域おこし協力隊)
大阪府高槻市出身。10代のころから役者を志す。夢を叶えてCMや大河ドラマをはじめ映画や舞台で活動。劇団「ブラックロック」の主宰を経て、海外公演を自主企画で成功させる。その後、キー局情報番組のディレクターとして番組制作に携わる。夢は日本を動かした100人になること! 地域の人に密着した動画作成や、人の顔が見えるマップを作りたくて移住を決意

